ブログ|早稲田墓陵

魂の故郷(いのちのふるさと)から一言

住職、副住職をはじめ龍善寺のスタッフが、日々の歩みの中で気づいたこと、
感じたことを綴ってまいります。一月1回の更新予定です。
これもご縁と、ちょっと息抜きにでも、お立ち寄りいただければ有難いことと思います。

ご縁いただき

日頃、浄土真宗(真宗大谷派 本山・京都東本願寺)龍善寺、魂の故郷早稲田墓陵早稲田納骨堂、早稲田永代供養墓におまいりいただきまして、誠に有難うございます。

今年の夏は雨が多く、夏らしい日を感じることが少なかったと思います。
先日、梨が食卓に並んでいるのを見て、知らぬ間に夏が終わろうとしていることを実感しました。
ただ、よく考えてみますと、今年も残すところ3ヶ月程度になってしまったわけですが、私にとって2017年は生活が一変した年でもあります。

 

実は、私事にはなってしまいますが、今年の7月に結婚しました。
結婚なんてまだまだ他人事と考えていたのですが、自分の身に起きてしまいました。
更に嬉しいことに、12月には赤ちゃんが生まれます。いつの間にか父親という訳です。
人生何が起こるかは本当に分かりません。
そういった時には「縁だねー」「縁ですねー」という言葉が飛び交います。
しかし、一体何を持って「縁」と言っているのでしょうか。

 

仏教には「因縁果」という言葉があります。
「因」は種。「果」は花。種から花を咲かす要因が「縁」ということです。
考えてみると、種を適当に置いといても花は咲きません。土があり、太陽があり、水がある等の様々な積み重ねがあるからこそ花が咲くのですよね。
この積み重ねこそが「縁」というのではないでしょうか。
そして、私たち一人一人がこの種そのものを持っているのではないでしょうか。
それも一つではなく、数え切れないくらいの無数の種をもっているのだと思います。

 

「生まれつき持っている種」
「親、友人、恋人等の関わってきた人たちの中で植えられた種」
「楽しい出来事から植えられた種」
「思い出したくも無い悲しい出来事から植えられた種」

 

言い出したらキリがありませんが、実は、その種が、時代背景や自分の感情、状況により花となって咲くのではないでしょうか。
つまり、私が結婚したのは、人生のどこかで種が植えられ、結婚に至るまでの感情、行動、状況が結婚という花を咲かせたということになります。

 

ただ、仏教が言っている「縁」とは、一般的に解釈されている良いことだけを言っている世界ではなく、まったく逆の方向になってしまうことも「縁」と言っているのです。

 

例えば今、妻のお腹の中に赤ちゃんがいるわけですが、もしも、赤ちゃんが育っていく為に必要な食糧を手に入れられなかった場合、私は食糧を持っている人を襲ってしまうかもしれません。
もちろん、人を襲うことなど行いたくない訳ですが、それでも私たち人間は、状況さえ揃ってしまえば、良くも悪くも「縁」によって、如何様な行為をもしてしまうのが、実情ではないでしょうか。

 

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、「さるべき業縁もよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉を残しています。
つまり、「私たちは縁があればどのようなこともしてしまう可能性があるんですよ。そのような愚かな心をもっているのが人間なのではないでしょうか。」と言われています。
そのような種を持っている私たちだからこそ、その種を持っていることを自覚し、「縁」次第でどのような行為をもしてしまう。そんな自分の姿に深く頷いていく。
それが、仏法(仏さまの教え)を通して気づかされる本当の「我が身」ではないかと思い始めています。

 

9月にはお彼岸があります。
お彼岸とは、彼岸(浄土、真実の世界)の光に照らされることで、此岸(娑婆世界)にいる我が身の真実が照らし出される仏教行事です。
自分にとっての都合のいいことだけを「縁」としている私たちが、本当の意味で顕かにされていく行事と言っていいのかもしれません。
是非、お参りください。

これからも、真宗大谷派 龍善寺、魂の故郷早稲田墓陵 早稲田納骨堂、早稲田永代供養墓に、引き続きお参りくださいますようお願い申し上げます。

 

南無阿弥陀仏

6:副住職 井上朋裕

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