用語集

お盆

日本のお盆は仏教の教えとは別に中国の儒教という教えの影響を受けた先祖供養などの要素が結びついて今の私たちに伝わっている行事です。この時期になりますと迎え火や送り火をどうしようか、キュウリやナスはどこにお飾りしようかしらという声が聞こえ始めます。迎え火や送り火は亡き方々が迷わないようにという思いであり、またキュウリやナスは馬や牛に例え、少しでも早く帰って来てほしい、そしてゆっくり帰ってほしいという心情の現れを毎年、お盆として行っています。

また、お盆の時期は短く13日に始まり16日には終わります。確かにお盆として過ごしていた時間は1年でたった4日間ですが、私たちは亡き人のことをたった4日間しか偲ばないのでしょうか。そんなことはないはずです。毎日でも手を合わすたびに亡き人と向き合っているはずです。ご生前の頃は仏教と無縁だったかもしれない亡き人が自らの死をもって、いのちの無常、尊さを手を合わせている私たちに毎日伝えてようとしてくださっているのではないでしょうか。だとすれば、お盆という短期間だけを特化して亡き人が帰ってくる、どこにいる、ということではなく、実は365日、毎日私たちの心の中で共に生き続け、いのちそのものを問いかけてくださっているはずです。そうしますと、その毎日が私たちにとってのお盆であり、そこに「迎え火、送り火」等が必要なのでしょうか。

そして、仏教ではこのお盆を『盂蘭盆』と言い、元は古代インドの言語「ウランバナ」という言葉を中国の方々が音写(耳で聞いて漢字に)したものです。この「ウランバナ」は「倒懸」と言い、「逆さに吊るされた最も苦しい状態」を意味しています。

お釈迦様のお弟子である目連尊者は亡き母が餓鬼道という世界で苦しんでいることを知り、お釈迦様へ相談します。するとお釈迦様から「雨季の安居(修行)が終わる日(7月半ばごろ)に自宅でさまざまなお供えをして、修行僧によってお勤めして、功徳を積めば母が救われる」という教えを頂き、その通りにしたことで、目連尊者の母が救われていくのがお盆の元になる「盂蘭盆経」のお話です。ただ、この目連尊者の母が餓鬼道で苦しんでいたお話を通して、もがき苦しんでいるのは人間道に生きている今の私たちであることを受け止められるかどうかが大切なことかもしれません。大切な家族を失い、一番頼りにしているはずの自分自身が老いや病によって頼りきれる存在ではない事実に戸惑い、迷い苦しんでいる姿を言い当てているのです。亡き人の為と思って行っているお盆やその他の行事も実は亡き人が人生を右往左往している私たちへ大切なことを問いかけてくださっている時間であったと言っても過言ではありません。

また、餓鬼道や地獄に落ちてもおかしくない煩悩まみれなこの私たちが餓鬼道や地獄に落ちることのない南無阿弥陀仏の救いの中に今あることを亡き人を縁として目覚めさせていただいたとき、浄土真宗が表現している『歓喜会』としてのお盆を迎えることが出来ると思います。


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