ブログ|早稲田墓陵

魂の故郷(いのちのふるさと)から一言

住職、副住職をはじめ龍善寺のスタッフが、日々の歩みの中で気づいたこと、
感じたことを綴ってまいります。一月1回の更新予定です。
これもご縁と、ちょっと息抜きにでも、お立ち寄りいただければ有難いことと思います。

白髪の男性

5月下旬。気温がぐんぐん上がり、夏を先取りした気分になります。
そんな暑い中でも、早稲田墓陵(龍善寺境内墓地、早稲田納骨堂、早稲田永代供養)へ足を運びお参りしている姿を見させて頂き有難く感じます。

 

 

さて先日、沖縄の新聞に掲載された記事が話題になりました。那覇市の高校2年生が伯父の葬儀の為、与那国島に帰省しようと那覇空港に向かったのですが、航空券代が入った財布がないことに気づきました。途方にくれていたところを白髪の男性が声をかけ、事情を聞き、航空機代を差し出されたといった内容です。

 

 

この記事を読ませて頂き、白髪の男性の立場に立った時、私ならどうしたのだろうかと考えさせられます。見ず知らずの人だからと見て見ぬふりをするのか、持ち合わせのお金がないからとか、忙しいからと色々自分に都合のよい考えを巡らせこの高校生に手を差し伸べていないことが想像されます。

 

ですから白髪の男性の様に困っている人を助けることや他人のために行動することを「慈悲深い」と言い表すことがあるのではないでしょうか。
「慈悲」とは、仏教からでた言葉です。浄土真宗の宗祖 親鸞聖人が尊敬されている中国の僧 曇鸞大師は「慈悲」についてこのように言われています。

 

苦を抜くを慈と曰う、楽を与うるを悲と曰う 『浄土論註』

 

悲しみを抜き、楽を与えるということです。誰かが困っていたら助けて、苦しみを抜いてやりたい。人のために行動して相手が喜んでいる姿をみたいといった心のはたらきを表すのです。

 

そして仏教では仏さまの慈悲を大慈悲といいます。いつでも、どこでも、誰にでも平等に差別なくはたらきかけ、縁に左右されない限界がないはたらきをさすのです。

 

一方、人間の慈悲を仏さまの大慈悲に対して小慈悲といいます。自分の考えや思いだけでなく縁に左右されてしまいますので、限界があるためです。仮に高校生と同じ状況であるなら、自分自身が困っているため助けることは難しいということです。また那覇空港でその時間に自分が居合わせるといった条件がそろわないとその方のために行動を起こすということができないということがあるからです。ですから白髪の男性の慈悲のはたらきもまた仏さまの世界においていえば、私たちと同じ限りある世界のはたらきであるのです。

 

 

仏さまの教えによって照らし出される「私」というのを日々訪ねていきたいと思います。

 

 

 

南無阿弥陀仏

副住職 末廣亮

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