ブログ|早稲田墓陵

魂の故郷(いのちのふるさと)から一言

住職、副住職をはじめ龍善寺のスタッフが、日々の歩みの中で気づいたこと、
感じたことを綴ってまいります。一月1回の更新予定です。
これもご縁と、ちょっと息抜きにでも、お立ち寄りいただければ有難いことと思います。

当たり前

秋のお彼岸も過ぎ、朝夕に秋の涼しさを感じます。
日頃より早稲田墓陵(龍善寺境内墓地、早稲田納骨堂、早稲田永代供養墓)にご参拝いただき、有難うございます。

 

 

私事ですが、私は一児の父でして、生後半年になる息子がおります。
その息子は生まれた直後は3000gに満たず小さく、20gのミルクも満足に飲めませんでした。看護師さん指導の元、息子の足の裏を親指で強く押し、無理にでも飲ませよう必死になっておりました。この先この子は生きていけるのだろうかと漠然とした不安と焦りがあった事を思い出します。

 

 
しかし、そんな私の思いとは裏腹に息子は徐々にミルクの量を飲めるようになりました。それに伴い身体が成長し、首がすわり寝返りが打てるようになり、そして体重は生まれた時の倍以上になり、ハイハイの練習をするようになりました。あれだけミルクを飲まなかったにも関わらず、今では離乳食、ミルクを飲んでもまだ足りないと泣くようになっております。毎日、身近に接しているにも関わらず、日々の成長と変化に驚きと一つの一つの出来事に生きる喜びを感じます。

 

 

 

そんな息子の姿を見ると、ふいに私自身は食べること、身体を動かすことをごく当たり前に出来ている事を感じます。「今日も食べられている。今日も歩けている。生きられている。やったー。」とは考えません。そのできていることが普通で当たり前の為、生きる喜びだと感じることができない生活をしております。

 

 

そういった姿を仏教では「空過」といいます。私そのもののいのちの喜びがあるにも関わらず、他者と比べその評価に振り回されながら迷い空しく一生を過ごしていく姿のことです。

 

 

息子を通して私にも生きる喜びがあるということ、そして私が今、息子にしている事は過去に両親が私にしてくれていたという事実にもまた気づかされるわけです。

 

 

 

日々の生活の中で、今、当たり前と感じ存在している私が当たり前ではないと教えてくださる仏の呼び声を大切にしていきたいと思います。

 

 

 

南無阿弥陀仏

副住職 末廣亮

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