ブログ|早稲田墓陵

魂の故郷(いのちのふるさと)から一言

住職、副住職をはじめ龍善寺のスタッフが、日々の歩みの中で気づいたこと、
感じたことを綴ってまいります。一月1回の更新予定です。
これもご縁と、ちょっと息抜きにでも、お立ち寄りいただければ有難いことと思います。

修行

納骨堂を見学案内していますと、施設の説明とは別に仏教に関する余談になることがよくあります。

普段、あまり接することのない世界だから尚更聞いてみたいのも無理はないのかもしれません。

先日も見学された方から「修行は大変でしたか」と聞かれました。

誰もが思い描いている僧侶の姿を壊すようで恐縮ですが、浄土真宗には滝行のような厳格な『修行』が存在していません。

そう答えると「生臭坊主」とまでは言われないものの、修行僧ではないことに何か物足りなさそうな表情をされてしまうことが多いのは、きっと『僧侶=厳しい修行』という強いイメージが先行しているからでしょうか。

 

実は浄土真宗の教えをあきらかにされた親鸞聖人は9歳から29歳までの20年間、それこそ比叡山で厳しい修行を行っていました。

ただ、どれだけ厳しい修行を重ねても一向に消えない自分の煩悩と向き合うことになります。

そして厳しい修行の果てに、厳しい修行ではどうにもならない煩悩を抱え、比叡山を下山することに。

 

親鸞聖人は晩年『一念多念文意』という書の中で

「無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと...」

誰もが持っている消えることのない煩悩について表現されています。

私たちも普段の生活で、腹を立てないように妬まないに心がけているはずです。

ただ、どれだけ心がけていたとしても、何かの縁で腹を立てたり、妬んでしまう私がいます。

 

誤解を恐れずにあえて『修行』という言葉を用いるのなら、浄土真宗では『聞法』(仏さまの教えを聞いていくこと)そのものが、修行ということになるのかもしれません。

ただし、聞法するということは仏教に詳しくなったり、知識を得ることでもありません。

目を背けたくなるような「いかり、はらだち、そねみ、ねたむ」煩悩を含めての自分であることに気付かされていくことに他ありません。

それはそれで厳しい修行ではないでしょうか。

 

お盆が終わりますと、すぐお彼岸です。

お彼岸について「暑からず、寒からず仏法修行のよき時節」と語ったのは浄土真宗を広めた蓮如上人。

普段、忙しすぎて自分を見失っている私たちに足元を見直させるひとつの仏縁として、彼岸である浄土の世界に還られた先達たちが、此岸で迷っている今の私たちに聞法を促すために、わざわざ用意してくださった時間に他ならないはずです。

9月20日、23日、26日は龍善寺でも彼岸会の法話を予定しています。

彼岸の参拝をひとつの仏縁として『聞法修行』してみてはいかがでしょうか。

 

南無阿弥陀仏

 

納骨堂担当住職 小林

2:住職 小林太一

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