ブログ|早稲田墓陵

魂の故郷(いのちのふるさと)から一言

住職、副住職をはじめ龍善寺のスタッフが、日々の歩みの中で気づいたこと、
感じたことを綴ってまいります。一月1回の更新予定です。
これもご縁と、ちょっと息抜きにでも、お立ち寄りいただければ有難いことと思います。

東日本大震災追悼法会について

遅ればせながら、さる4月8日(金)新宿区内の専福寺にて、新宿地区にある(浄土)真宗大谷派寺院20カ寺合同で東日本大震災5周年の追悼法会をお勤めいたしました。

 

当日は、およそ100名近い方々と、被災地の方へ思いをはせ、長い合掌、念仏の後、正信偈をお勤めさせていただきました。

その後、ご自身のお住まいの地域も昨年の鬼怒川水害被災されていながら、被災地に今も毎月のようにボランティア活動のために行かれているNPO法人災害ボランティアネットメンバーの茨城県常総市にある真宗大谷派報恩寺副住職坂東性悦さんに、活動実績をご報告いただきました。

 

また、福島県相馬の地域が、古くは、天明・天保の大飢饉に見舞われた時、その復興に大きな役割を果たしたのが、北陸からいのちがけで移り住んだ真宗門徒の方々でした。その200年の歴史と土徳が、東日本大震災によって失われようとしています。念仏をよりどころに、生き抜いてきたその先達方の歩みをたどり、震災からの復興と連帯について、富山県大福寺太田浩史住職にお話しいただきました。

 

あの東日本大震災から、私たちは、本当に多くのことを学ばせていただいたのだと思います。

あの2011年3月11日。あの日、2万人近い方が亡くなられました。その日が自分の命日なると思っておられた方が、どれほどいらしたでしょうか? ほとんどの方が、元気に朝を迎え、職場に、学校に行っておられたはずです。しかも、東北地方の太平洋岸は、過去何度も津波の被害にあっていた地域でした。ちゃんと対策されていたはずでした。これだけ対策してあれば、大丈夫だろう。そうした、人間の勝手な思いを、自然は、真実は、うち破っていったのです。

私たちの「いのち」の意味も同じだと思っています。「まだ若いから」、「健康だから」、「元気だから」。昨日までどんなに元気でも、今日どんなに元気でも、明日のことは、分からないのだよ。そうした、仏様からのメッセージを震災で亡くなられた方々から、今もいただいている。そんな思いが、私にはあります。

これからも、私は、龍善寺は、同じ浄土真宗の方々とも手を携えて、微力ながらも復興のお手伝いが続けられればと思っております。私たちは、決して、東日本大震災のことを忘れません。

 

当日のお納めいただいたお布施と、事前にお振込みいただいた支援金併せて300万円以上になりました。また、今年も、被災地の方々への支援金として使わさせていただきます。

 

龍善寺 住職 平松浄心

 

最後に当日お勤め前に読まれた、真宗大谷派東京4組組長 専福寺 二階堂行寿 住職が作成した表白(お勤めの宣言文)を掲載させていただきます。ここに、私どもの思いが凝縮されています。名文です。(なお、掲載文の責任は当寺にあります。)

 

表白

「本日ここに、真宗大谷派東京教区東京4組・東日本大震災追悼法会を営むにあたり、敬って、阿弥陀如来の尊前と宗祖親鸞聖人、そして十方三世の諸仏に申し上げます。
私たちは、5年前の3月11日、人間の思いでは計りえない大震災を経験いたしました。地震と津波は、そこに生きる人々とその生活、そして生きる場を根こそぎ奪い取りました。そして、さらに福島第一原子力発電所の事故は、世界中を放射能の恐怖に直面させ、多くの人々を底知れぬ不安と悲しみに落とし入れたのでした。

ここ東京でも、地震の被害を受けるとともに、また放射能の被害も受けたのです。その時にはどの人も、わが身や家族、知人のいのちや生活・生き方を問い・考えざるをえないことを、少なからず感じ取ったはずでした。しかし、それからわずか5年が過ぎただけの今、そこに感じたはずの思いも、ここ東京ではなかったかの状況に戻り、「風化させない」という言葉さえも聞こえず、生活や人生に対するものの見方は元に戻ってしまっているかのようです。

「無明煩悩われらがみにみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と宗祖は自ら「凡夫」のあり様を語られました。その信(こころ)を憶(おも)うとき、目の前のことが過ぎ去れば、また他人ごととして、「忘れ去ること」ばかりである私の姿は、まさに「凡夫」とあらわされた人間存在の痛ましさであり、そしてその「凡夫」という呼びかけは、そのあり様を問うている呼びかけ名前でありました。

5年たった今、目に見える復興がなされたところもあり、被災者の方々の生活も落ち着いたかのように見えるところもあります。しかし一方で、全く手の付けられていない場所や、時が経つにつれて、これからのことへの不安や人との関係の変化に苦しむ方々が多くなっているのが現状です。「今が一番つらいと」言われた方もおられます。

その方々の言葉では表しきれない現実とその思いがときに、叫びとなり、嗚咽(おえつ)となり、呻き(うめき)となり、ささやきとなり、呟(つぶや)きとなり、嘆(なげ)きとなり、怒りとなり、ため息となり、涙となり、寂(さび)しさとなり、願いとなり、・・・。

やり場のない苦しみ悲しみを抱え、言葉にならない思いを抱えて、その現実の生活の中で苦悩しておられます。もしかしたら、言葉にならないコトバ・声のところに、私たちのホントウがあるのかも知れません。

「聞法」-「聞く」ということを、親鸞仏教に生きる私たち真宗門徒の生活の在り方として大切にしてまいりました。それは、教えを通して、我が身を知るということです。人間はどこまでも、人間の”思い”、自らの”思い”中心にしか生きていけない。そしてそのことを知らない私たちのあり方を、如来の悲しみの声として聞き取る歩みを勧めているのでしょう。そう教えられながら、その声に真(深)からうなずき、歩んでいない私を問うてきます。それは、忘却することなど到底あり得ない、日々の生活に苦悩している人々からの声なき声ともなって。

本日ここに、東日本大震災追悼法会をお勤めするにあたり、あらためて如来・聖人の教えと、わが身の置かれる現実世界にどこまでも向き合いながら、人間、いや私の姿・あり方を痛み悲しむ如来の呼びかけの声を聞き続ける歩みを、日々の生活の中でしていきたいと思うのです。

しかれば、一切衆生とともに生死の苦海を超えて、浄土往生の道を生きることを、照らし護られんことを請い願います。

2016年4月8日

真宗大谷派東京教区東京4組 組長 二階堂行壽」

1:住職 平松浄心

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