ブログ|早稲田墓陵

魂の故郷(いのちのふるさと)から一言

住職、副住職をはじめ龍善寺のスタッフが、日々の歩みの中で気づいたこと、
感じたことを綴ってまいります。一月1回の更新予定です。
これもご縁と、ちょっと息抜きにでも、お立ち寄りいただければ有難いことと思います。

同窓会

先日私事になりますが、高校の同窓会に参加して参りました。

 

高校の同窓会は初めての参加で、27年振りに再会した人も多く、当時の面影を残す方も多く、大変懐かしく思いました。苦楽を共にした仲間と会うのは本当に貴重な時間でした。
久し振りの再会の中で、今何を生業としているかが話題になります。
年齢的に企業の中間管理職をしている方が多いですが、中には会社経営をしている方、大学教授をしている方など、様々な人生をそれぞれ歩んでおられます。
私は浄土真宗の僧侶をしているのですが、同級生には何故お坊さんになったのかは不思議に思われていました。

 

私が僧侶となったのは、高校時代の友人の死がきっかけでした。もし生きていれば今回の同窓会に出席していたかもしれません。
彼は31歳の時に心臓の癌を患い、数か月後に人生の幕を下ろしました。
当時私も彼も新婚でした。お互いの結婚式に出席し、それぞれこれからという時だったので、関係される方の辛さは想像を絶するものでした。
私は彼の葬儀に参列しました。親族。会社関係や友人が大勢参列されていました。私が焼香をし、遺影を見上げて合葬した時、私の心に彼からの言葉が届きました。

 

「お前だったかもしれないぞ」と。

 

友人の死は本当に悲しく辛いものです。しかしながら彼からの言葉で「自分でなくて良かった」と思う私の心を見透かされた気がして、居たたまれない気持ちになりました。
数か月は心が不安定になり、仕事にも身が入らず、考え事をすることが多くなりました。
その当時サラリーマンをしていた私ですが、数年後あるお寺とのご縁もあった事で会社を辞め、僧侶となり、今ここの龍善寺におります。

 

真宗大谷派東京教区で出している葬儀のリーフレットに

 

ひとりの人の死は悲しい
しかし残された私がそのことから何も学ばず
何ひとつ新しく生み出せないとすれば
それはもっと悲しい

 

という言葉が載っています。
葬儀は亡き方が身をもって「死」という現実を顕(あきら)かにして下さり、また「その現実を受け止めよ」と残された人に必死に伝える場であります。

 

早稲田納骨堂をご見学並びにご参拝されている方々は、それぞれ「死」に向き合ってきている方が大勢いらっしゃいます。仏様はその悲しみを縁として、残された私達が自分自身を見つめ、仏法を聴聞する機会を作って下さいます。
彼の死が機縁となって、阿弥陀如来の用(はた)らきに気付かせていただいたご縁を大切に今生きております。

 

彼が身をもって私に伝えようとしたメッセージは、今も私に響き続けています。

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

3:副住職 石井祐司

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