ブログ|早稲田墓陵

魂の故郷(いのちのふるさと)から一言

住職、副住職をはじめ龍善寺のスタッフが、日々の歩みの中で気づいたこと、
感じたことを綴ってまいります。一月1回の更新予定です。
これもご縁と、ちょっと息抜きにでも、お立ち寄りいただければ有難いことと思います。

ありがとう

先月末、京都・東本願寺の東京拠点、練馬区の真宗会館にて、一年で一番大きな法要「報恩講」が執り行われました。
「報恩講」とは、親鸞聖人の教えに出遇った私達がその教えをいただき、改めて、その御恩に報いる法要です。
通常の法要とは違い、総勢40名ほどの僧侶が出仕し、雅楽の音色とともにお勤めが行われ、とても厳かな雰囲気となっておりました。
当日は、平日にも関わらず、多くの方がご参拝にお越しになり、本堂は満堂となっていましたが、ご参拝された方の中には当寺の納骨堂にご縁のある方もお越しになっていました。

 

お勤めの後には、九州大谷短期大学学長の三明智彰先生より、「報恩謝徳」という講題のもと、法話をいただきましたがその法話の中で、私自身が改めてはっと気づかされたことがありました。

 

先生がお話しくださった法話の中で「教養父母」(父母への供養)について

 

『私達は、母親が死ぬほど苦しい思いをして、ようやく生まれてきたというのに、当たり前ですが、言葉を覚えていませんので、「産んでくれて、ありがとう」とは言いません。
また、成長していき、父がいても、「ママ」と言い、特に我々は母親を探そうとします。
この行為は本能ではないでしょうか。
本当に日頃、両親がいるのが当たり前で、感謝の気持ちを伝えていますか?』

 

と、おっしゃっていました。

 

自分自身、確かにいままで、実家に帰れば両親がいて、さらに身の回りの事も「当たり前」のようにやってくれているにも関わらず、ほとんど「ありがとう」と言った記憶がないかもしれません。
みなさんも、感謝の気持ちを込めて、ご両親に「ありがとう」と言った記憶がありますか?
そもそも、「ありがとう」とは、仏教語の「有り難い」が元で、感動の言葉であり、いつしか感謝の言葉としても用いられてきましたが、本当に両親の事を思って「ありがとう」とはまだ言えていない自分がいるのかもしれません。
ただ、「当たり前」だと思っていたことが、実はそうではなかったと私自身が気づけた時、「ありがとう」という思いが、自然に言葉となって出てくるのではないかと思っています。

 

合掌

 

5:副住職 音俊輔

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